柳宗理氏追悼

柳宗理氏追悼

JIDA名誉会員 黒川威人

ホワイトクリスマスの25日、柳宗理氏が永遠の旅路につかれた。
柳氏はJIDA創立会員の一人で、JIDAのマーク原案を作った人である。既に新聞報道等で紹介されているが、日本の工業デザイナーの草分け的存在であり、世界的に著名なデザイナーとして活動された方である。私が初めて柳氏に出会ったのは、私が金沢美大に助手として奉職し始めた昭和43年のことだった。もちろんそれ以前の世界デザイン会議などでお顔は知ってはいたが、当時、金沢美大の教授嘱託であった柳氏の講義のお手伝いなどするようになって、親しくおつきあいさせていただくようになった。

講義では主にバウハウスの話をされ、その熱のこもった講義ぶりは卒業生の皆さんの語り草だった。戦前はフランスから招かれたシャルロット・ペリアンの助手として日本中を一緒に回られるなど、ヨーロッパからのデザイン運動を日本に紹介された草分けの一人だが、そうした話も講義の中でされていた。ペリアンといえばその師匠であるル・コルビュジェに若い頃から柳氏は心酔しておられた。「輝ける都市」や「今日の装飾芸術」などの著作を引用しての話は、やはり学生達を引きつけてやまなかった。「今日の装飾芸術は装飾なきところにある」というコルビュジェの言葉を高らかに叫ばれるその声は今も鮮やかに耳に残っている。太平洋戦争中、南方戦線に従軍されていた氏は背嚢の中にいつもコルビュジェの原書をしのばせていたという逸話も何度もうかがっている。

金沢美術工芸大学へは4年制大学になった当初、主任教授として着任されたが、私が着任する前年には非常勤となっておられた。しかし前後期の2度にわたる集中講義の他、卒業制作の審査などにも顔を出しておられた。金沢には戦災を免れた日本の文化があり、そうしたことから、金沢の水引細工や落雁の木型などに興味を持たれ、工房へ足を運ばれたり、それら伝統工芸の展覧会を開催し、あるいは文書で雑誌に紹介されるなど、地域に埋もれた優れたものを社会に紹介する活動を精力的におこなっておられた。工芸にとどまらず、例えば石川県の山間部に残る、木偶(でく)回しなどの伝統文化にも大変興味を持たれ、私も何度かお供させていただいたことがある。

10年ほど前には、JIDA北陸の行事の一環として、木偶回しを見学後、白山麓白峰村の民宿で、氏を囲んで懇談会をしたこともある。この時はJIDAのホームページを見たという一般の方も参加され大いに盛り上がったことを思い出す。大雪に見舞われ深い雪のなかでのイベントだった。

最近は人前に出られることもあまりなくなっていたようだが、氏の作品は今日なお生産されているものが多く、近年になって逆に脚光を浴びるなど、根底にあるアノニマスを理想とするモダンデザインは輝きを失っていない。なお、横断歩道橋や高速道路の防音壁など環境デザイン分野の仕事にいち早く取り組まれたことも、大先達の業績の一環として特記しておきたい。
ご冥福を心から祈ります。合掌

写真キャプション:
「柳宗理うまれるかたち」展図録に掲載された、佐藤和子「近代デザインにおける柳宗理ーバウハウスとイタリア・デザインからー」中の写真から抜粋させていただいたもの。1980年ミラノ市近代美術館で開催の<柳宗理:デザイナー・作品・1950〜80>展会場にて。

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